● 学園紙誌から


■『進路だより』No.60 より

成長する脳・ボケる脳   進路指導部長  古橋 妙子 

 お正月が近づくと、魚屋の店先に新巻鮭がぶらさがる。この鮭たちは、川底の小石がはっきり見える澄んだ水の中で孵化し、稚魚は川を下る。豊かな大海で育った鮭は1メートル近くにもなり、自分の生まれた川へ帰ってくる。海水から真水に入る河口では1週間ぐらい留まり、真水に慣れてから川をさかのぼる。上流までゆくと、酸素が十分供給される場所を捜し、尾びれで小石をはねとばし窪みを作って産卵し小石をかける。卵が流されないようにするためだ。その頃には、雌鮭の体はボロボロになり力尽きて流されながら生命を終えてゆく。稚魚は餌の取り方、自分の生まれた川の捜し方、真水から海水への入り方を親から教えてもらうことなく、自分で生きてゆく。親からの遺伝子(DNAと呼ぶ分子)が生きる知恵を伝えている。
 ヒトの場合はどうだろう。生まれた赤ちゃんが芝生の上に置かれたままでは、生き続けることはできない。食卓に十分用意された食物でさえ、一人で食べるようになるまでには、親の愛情あふれる教えが続く。最も自然に近い排泄さえも親から教えてもらう。ヒトは遺伝子で伝えられることと、生後教えられたり、学んだりして獲得してゆくこととある。
 ヒトの脳は生まれたとき、一兆個に及ぶ神経細胞を持っている。これらはすべて最初から目的に適った働きをするわけではない。成長する過程で様々な経験をして神経細胞を効率よく使えるようにしてゆく。脳の中では使われない部分は退化していく。外からの刺激に反応しないヤル気のない部分の機能はそのまま維持されるのではなく積極的に能力を失ってゆく。最近この「積極的に能力を失っている」と思われる子供をみかける。肉体だけは成長するが脳は老化の一途を辿っている子供である。「まるで宇宙人と話しているみたい。」と言われる。筋道をたてて話をしても、理解できない。助言を素直に受け入れず低レベルの判断力で行動する。人間として未熟な子供のわがままを、誤った個性の尊重として許してしまったため、基礎力がつかないまま年を重ね、授業内容が理解できなくなる。その結果苦しむのは子供なので甘やかした大人は責任を感じなくてはなるまい。
 人間は自分の育った国の言語を学びとってゆき、それを使って考える。だから知っている言葉の多い人は幅広く深く考えることができる。日本人だから日本語をすべて理解できるわけではなく読書などを通して学ぶ必要がある。昨年広辞苑に「茶髪」などが入って二百三十万語となった。意味がきちんとわかる言葉がいくつあるか試してみると面白い。
 物忘れをした時「まっいいか」とあきらめる人より「なんとか思い出してやる!」と努力する人の方が脳は退化しない。一人の人間として、より良く生きていこうという意思、意欲こそ、脳を発達させ、脳の健康を保つ秘訣なのだ。このようなことを考えている時、新聞で、美しく輝く女性、西浦みどりさんを知った。彼女は国際コンサルタントとして経済界で良く知られ、細密な知識と判断力を持つ。十代初めに英国へ渡り欧米上流社会に暮しソプラノ歌手となったが帰国して転身、国際金融に着眼して眠る間も惜しみ勉強した。今や銀行が西浦さんに助言を求めるほどだ。しかし仕事だけの女性ではなく、ワイン、料理、服装、美術、マナーに至るまで知り尽くしている華やかで歯に衣着せぬ辛口の評論家である。彼女は言う「若い女性達は、もっと本気で勉強して力をつけて欲しい。ゆるぎない実力を持ち、考えをはっきり言う。可愛いとか、エセキャリアウーマンでなく魅力ある自分でいること。」努力を貫いた人の助言を受けとめて、脳細胞を可能な限り退化させないでおこう。


■『友情』No.205 より

ものの見方と感じ方   学校長  岡本 肇

 四月二十五日のA新聞に「学習塾」について次のような記事が載った。 見出しは「塾通い、十時帰宅じゃ疲れちゃう…」  小見出しとして「十五%の生徒やめたい」とある。記事の要約は、 「学習塾に通っている中学三年生の六割が午後十時以降に塾から帰宅していることがわかり、 そのうち十五%の生徒は塾をやめたいと思っている」という内容である。 やめたい理由として「学校の成績がよくならない」「体が疲れる」「塾の先生が嫌い」などをあげ、 全体的に塾に対して否定的な記事である。
 同じ日のT新聞の見出しは、「塾楽しい七十七%、授業分かる八十二%」 小見出しとして「中三生 学校より信頼」とある。内容は「塾が楽しい」という子どもが八割近く、 授業が「よく分かる」「まあ分かる」が八割を越えて学校より塾の方が子どもに指示されているという塾に肯定的な記事である。
 このA紙とT紙の正反対の記事のもとは同じで、日本PTA全国協議会が、 昨年十二月に小学六年生、中学三年生、学校教師、塾講師を対象にした調査結果である。 同じ資料をベースにしても、書く人の意識や見方で言っていることは逆になる。
 考えてみれば私達の日常生活でも、同じものを楽観的に見たり悲観的に見たりして一喜一憂していることがある。 昔あるところに、「泣き屋ばあさん」という人がいて、晴れた日は、傘屋を営んでいる息子が商売にならないと泣き、 雨に日は屋根職人をしているもう一人の息子が仕事がないといって泣いていたそうである。 そこへお坊さんが来て、雨の日は傘屋のために喜び、晴れた日は屋根職人の息子のために笑って暮らしたらどうかといったそうである。 同じ事でも、見方や考え方で一年中泣いて暮らすこともあれば、笑って暮らすこともできるというたとえ話しである。
 私達はコップに半分残った水を見て「あと半分しかない」と水が一滴もなくなった時を想像して暗い気持ちになる時もあれば、 「まだ半分残っている」とそのうちに何とかなるはずと明るい気分になることもある。 若い君達には、ものを否定的・悲観的に見るよりも、肯定的・楽観的に受けとめてほしいと思う。


■ 「西遠女子学園報」平成10年4月20日号より

現代に生きる学園の精神   学校長  岡本 肇

 一昨年十月四日に行われた九十周年記念式典と同月六日の同窓会総会をもって、創立九十周年に関する行事は終わったが、 それぞれの行事を通して学園に関わりのある人はいろいろな感慨があったと思う。平田の高等技芸学校の時代、 戦前の高等女学校の時代、戦後の復興の時代と、同じ母校であっても卒業生によっては全く違った環境で学生時代を過ごしているのである。 それでも卒業生は「西遠らしさ」という共通点をもって、社会に出てもお互いに何となくわかるという。 それが伝統といえるものかも知れない。
 学園長の富郎先生は創立者の巌先生を人間として心から尊敬していたので、いろいろな機会に老校長先生の話をした。 私学としていかにして創立者の「心」を伝えてゆくかに苦心されたと思う。
 老校長が亡くなって五十年余、学園長が亡くなって十数年たって、学園では創立者に会うことも、その話を聞くこともできない。 それでも校庭で風雪に耐えるきびしい姿の銅像を、大講堂のフロックコートを着て立つ颯爽とした肖像を、 又中講堂にかかげられた慈父のような温顔の胸像を通して、生徒は老校長先生を身近なものとして感じているのではないだろうか。 私自身の経験でも、卒業した大学の創立者が学内で敬慕をもって語り継がれていたので、その著書を読んだときも、 直接話を聞いたような感じがしている。
 現在でも学園では新入生と卒業生の墓参が行われ、創立記念日、入学式、卒業式などの式典で、老校長の創立当時の苦難のあとをしのび、 「老校長を讃える歌」とともに生徒の代表が花輪をささげている。他の学校ではないことかも知れないが、これが「西遠らしさ」であり、 このような伝統によって創立者は学園に学ぶ生徒の胸の中に生き続けるのだと思う。時代と共に学ぶ事柄は変わり、 時の流れに校舎の姿は変わっても、創立の時に老校長によってともされた「理想の灯」が生徒から生徒へと受け継がれてゆく限りは、 学園は存続してゆき、やがて輝かしい百周年を迎えられるだろう。
 さて、六年間の学園生活を通して「西遠らしさ」を体得し、「学園の精神」を人生の指針に掲げて学園を巣立っていく生徒諸君は、 二年後成人式を迎える。法律的にも社会的にも一人前のおとなになるのである。ある新聞の社説は、 成人の日を迎えた若い人は多分社説など読まないだろうと思うがという前置きをしながら、二十歳になった人達に九項目の提言をしていた。 その中には、マンガをやめて、読まなくてもいいから文庫本を手にしたらどうか、背伸びすればいずれ身につくとか、 自分をパロディ化して笑いのめしたらどうかというようなユニークな提案もあった。しかし大部分は、 私達教師や親が今まで何回も言ってきたようなことと共通している。 いつの時代でも大人が若者に呈する苦言は似たようなものなのかもしれないが、若者はそれをうとましく思い時には無視する。 しかしもう一度社会人の先輩として言っておきたいのである。
 第一に、学園の校訓「典雅荘重」を中学では「強く、正しく、美しく」と示してある。 残念ながら戦後の日本では道徳・倫理が古いものとして退けられてきたが、 時代が変わっても人間としてやっていい事とやってならない事があるはずである。極論を言えば、命を懸けてもやらなければならない事もあるし、 命を捨ててもしてはならない事もあるはずである。悪いことは絶対にしてはならないということである。
 第二に、自分を育てるということである。若い人達がジーンズやスニーカーを買ってきて、 独自の手入れの仕方で自分の体に合ったものに仕立てることを、「育てる」と表現しているのを知った。 「ジーンズを育てる」という言葉に自分の気に入ったものに対する愛着が感じられる。 それと同じように自分を愛着の持てる大人に育てて欲しい。ルソーは青年期に自己を形成することを「第二の誕生」といったが、 子供から大人に脱皮するためのいくつかの発達課題がある。精神的な離乳をして独立した存在になるためには、自分を客観的に観察して、 甘えを捨てて、厳しく自己と向き合ってほしい。


■ PTAだより「ふれあい」第69号より (1997.07.18)

子育てトレーニング   学校長  岡本 肇

 昔のことわざに「親はなくても子は育つ」というのがあります。残念ながら、最近は、 特に戦後の日本は「親はなくても」どころか「親があっても」子供が育ちにくい状況になってきています。
 その原因として第一に社会が複雑化してきていることがあります。情報の量とスピードが格段に増して短いサイクルで流行が生み出されます。 次のヒット商品をねらって、マスメディアが総動員されます。たとえば、「遊び」を考えても親が子供の頃やった遊びと、 今の子供たちが夢中になっているテレビゲーム、プリクラ、タマゴッチのようなものとは異質なものです。 お手玉、コマ、凧揚げ、あやとりなど遊びを通して親が子供に教える場面がなくなりました。 これらの伝統的な子供の遊びは、今では民芸品の世界に入ってしまいました。
 第二に子供の世界があらゆる面で商業主義の草刈り場にされていることです。 次々とモデルチェンジする高価なおもちゃも流行が去ればゴミの山です。 サービス産業も未熟な好奇心につけ込んで次々と怪しげなブームを演出します。
 「親の後ろ姿を見て子は育つ」とも言われますが、伝統が継承されにくくなった社会では、なかなかその通りゆきません。 アメリカでは「子育ては難しい。本当の親になるために、親自身がトレーニングを積む必要がある」という考えが広がってきています。 テレビドラマの「大草原の小さな家」に出てくるような伝統的な家族関係の中での家庭教育は、望むべくもありません。 「レストランのウェイトレスがお客に対するサービスを練習するのと同じように、親は子育てのトレーニングを受け、 本当の親になるため努力すべきである。現在の社会は子育ての上でさまざまな問題があるだけに、 なおさら子育てのトレーニングは必要である」とはいかにもアメリカ的な表現ですが、青少年問題はその段階まできているともいえます。 しかし青少年問題研究所の調査によると「意識」の面では日本の子供の方が深刻なところもあります。 そろそろ子育てについて勉強が必要な時代かも知れません。



■ PTAだより「ふれあい」第68号より

バングラデシュに学校を

 今学園では90周年の記念行事の一環として「バングラデシュに学校を建設しよう」の運動に協力し、活動しています。 これまでに154,589円の募金があつまりました。そして今回、運動のひとつとして数名の生徒、 先生でのバングラデシュ訪問が実現しました。この研修旅行にはPTA協力会より50万円、 そのほかにも文房具や保護者からの寄付の30台の鍵盤ハーモニカ、50本のハーモニカ等たくさんの協力があり現地でも大変喜ばれ、 無事に終えることができました。その旅行に参加した皆さんの感想を紹介しました。
・現地を訪れて子供達が歓迎のために日本の旗を振る姿。その純粋な目に涙が止まりませんでした。(4年生)
・バングラデシュの貧しさを目の当たりにして教育の重要性を改めて知ることができました。(5年生)
・現地の自然の中で生きる人々を見てそのゆったりとした様子に何が人間の幸せなのかわからなくなりました。(5年生)
・是非もう一度行きたい。高校生の内に発展途上国へ行くことが出来たこの体験は私の成長の鍵となりました。(4年生)
これで終わりではなく、始まりなのだと皆さんが実感した様子でした。

西遠四代の記

 この春卒業する卒業生の中から母娘4代に渡って西遠女子学園に在学した生徒の保護者の方に思いをつづっていただきました。
 高校23回卒業  高橋ゆき子様
 四代めとして入学した娘も、六年間の西遠での生活を終え、この三月には卒業となります。思春期まっ盛りの六年間。 多くの事を学び経験し、そして素敵な友人達との出会い。まさに学園生活を満喫した六年間だったようです。 この最後の年に創立九十周年という大イベントに出会えた事は、大変うれしく感激致しました。 実は三十年前、私が在学中にも創立六十周年の記念式典がありましたが、 当時は該当者がおおく「三代生存に限り対象」ということで(祖母は早くに他界しておりましたので)残念ながら式典には参加できませんでした。 そんな思いの中、今回の式典は母も大変喜び、故佐々木松次郎先生に描いていただいた祖母の肖像画を抱いて出席致しました。 母への思いがけない孝行ができたようです。母は昭和十七年に入学し、学生時代はほとんど戦争という中で学び、 同級生の何人かは学徒動員で亡くなったそうです。大変な女学生時代だったようですが、そんな中でも多くの友人に恵まれ、 今でも二ヶ月に一度定期的に会って親交を深めているようです。私も西遠を卒業して二十五年余になりますが、 あの老松に抱かれた正門をくぐると、多くの友人達と語り合ったあの楽しかった学園生活が思い出されます。 私の学んだ懐かしい扇形校舎中学館も本館も、そしてあのシャンデリアの講堂もすべて建て替えられましたが、 その中に息づく西遠の伝統と校風は、卒業生、在校生、先生方を通して受け継がれていくものと信じています。 今後は遠くからではありますが、学園の発展を見守り続けさせていただきます。(全文)